どうも、アクセルです。 1年と少し前にすい臓がんが発覚し、 「1秒でも長く生きたい」と 願っていた父の心境が 変化してきました。 「抗ガン剤治療をやめたい」 と言ってきました。 「やめる」ではなく「やめたい」 なのです。 抗がん剤は副作用が強く 状況によってはかえって 寿命を縮めることにもなります。 これは生きる希望をなくした わけでも、投げやりになっている わけでもなく何かをやり遂げた 人の言葉だと僕は感じました。 残される母のためにこの 1年は実家の大がかりな リフォームをしてきました。 家電を新しくしたり トレイやお風呂も 新品にしたりしました。 車の免許も返納したので、 父が乗っていた車は 僕が所有しています。 実家にあるものは じっくりと時間を かけて大半のものを 捨ててきました。 断捨離ですね。 そうこうしているうちに この1か月は腹水がたまり 足がパンパンになって しまいました。 歩くのもしんどいし ベットの上でゴロゴロと 過ごす時間も増えて 来たということでした。 でも、父は焦っていません。 父は、激動の人生を 送ってきました。 実は生まれたのは 日本ではありません。 中国の満州です。 父が生まれた当時は 中国の一部は日本の 領土でした。 父の父(つまり僕の祖父)は 満州のお寺でお坊さんを していました。 そこで、生まれたのが 父というわけです。 戦争が終わって慌てて 戻ってき多から良いのですが 一歩間違えば中国残留孤児です。 満州から戻ってきてからは 九州の鹿児島のお寺に 住んでいました。 祖父は日本でも お坊さんを続けていました。 父もお坊さんになるつもりで いたわけですが、父が6年生のときに 祖父がなくなってしまいました。 6年生ではお寺を継ぐことは できませんから、母と子は お寺を出ることを余儀なくされました。 それからは転落人生です。 長屋で極貧の生活を 母と子で続けていました。 父はお坊さんを継ぐことが できなくなったので、 別の夢をみつけることになります。 それが教師になる夢です。 教師は大学にいかないと 免許がとれないのですが 当時の家庭環境考えたら とても大学にはいけません。 とりあえず工業高校までは 卒業できましたが、その後は 進学することなく就職です。 当時の鹿児島は仕事がなかったので 母子で仕事のある静岡県へ 移住することになりました。 父は、工場勤務で働きながらも 教師になる夢をどうしても 諦めることができませんでした。 工場長に相談して 夜学の大学に 通うことになりました。 昼は工場で働き、 夜は大学生です。 ようやく教員免許を 取得できたのは 20代の後半だったそうです。 ちなみに教科は社会科です。 そのころ社交パーティーで 出会ったのが母です。 母はわりと裕福な家庭に育ち、 私立の大学を卒業しています。 母はわりとお嬢様です。 当時は、女性で私立の4大を 卒業するのはまだまだ 珍しい時代です。 私立の4大をでたあと 母も教師の夢を抱きながらも 商社に就職してバリバリ 働いていました。 母は英語の教師の 資格を大学で取得しました。 父の夢を聞いて母は 献身的に支えながら やがて結婚しました。 父は結婚当初は父は まだ教師になっておらず 教員採用試験を受ける段階でした。 そのタイミングで 僕が生まれました。 結婚して約1年後の話です。 ちなみに僕の誕生日の1日後が 父と母の結婚記念日です。 年代は逆ですけどね。 その年になんとか父は 教員採用試験に合格し、 地元で小学校の先生になりました。 教員になったとき、 父はもう30歳になっていました。 当時は、大学卒業後すぐに 教師になるのが当たりまですから 23歳と同僚になったわけです。 数年前までは当時担任を していた子供たちの同窓会に 呼ばれていました。 本当に慕われている 先生だったのだと思います。 父は30歳で教師になったのに 40代後半で教頭になりました。 今は教師に数が減っているので ありうることですが当時としては 異例のスピード出世です。 さらに50代前半で校長になり 校長として3~4校を 勤め上げました。 そして、60歳で退職しました。 その後も、家にひきこもる なんてことはせずに 退職後はすぐに理美容学校の 校長として数年勤めました。 退職後も後輩の教師から ゴルフの誘いが毎月の ようにありました。 父の周りにはいつも 多くの人が集まってくるのです。 ようやく落ち着いたと 思ったら今度はボランティアで 外国人労働者の子供に 勉強を教えていました。 また、月に数回は 児童養護施設で 授業も行っていました。 もちろん無償です。 それと並行して母とクルーズ 旅行に行ったりして夫婦の 時間を満喫していました。 現在、父は79歳です。 20年近くは夫婦の 穏やかな時間を 過ごせたと思います。 父は、家が貧しくても 教師の夢をあきらめず 夜学で教員免許をとりました。 30歳という当時は 最高齢で合格したのに 爆速で教頭・校長になりました。 退職後も外国人労働者の子供や 児童養護施設の子供たちに ずっと手を差し伸べ続けました。 そしてその父を1ミリも 疑わずに支え続けた母。 両親としても尊敬していますが それ以上に夫婦の先輩として 僕は多くのことを学びました。 とにかく僕とは 比較にならないぐらい 長い間、ギブをし続けた父。 やり残したことはおそらく ないのだと思います。 だから、自ら抗がん剤治療を やめる決心ができたのだと思います。 旅立ちの用意ができたのだと思います。 後悔の表情はなく、むしろ やりとげた表情に感じました。 「ただ1つだけ気がかりなのは 残していく母のことだ」 と言っていました。 父が「お母さんをよろしくね」 と頭を下げられたときに 僕は涙がとまりませんでした。 うなづくのが精一杯でした。 今思えば、父が1年以上も 抗がん剤を続けたのは 母のためだったのではないか とすら思ってきました。 でも、僕も実を言うと 父のことに共感できる 事があります。 それは「いつ死んでもよい」と 常に思って生きていることです。 現実的には妻と子供3人を 残して死ぬわけには いかないのですけどね。 僕は脱サラしてブログで 起業してマイホームを買いました。 そして、ずっと夢だった 先生になれました。 ブログの先生ですけどね。 そう考えると やり残したこと ってないんですよ。 それぐらいブログで 稼いだお金を体験に 変えることができました。 後悔はないです。 いつ死んでもいいなんて 最高の人生だと思いませんか? もしこのメルマガを読んで人で 今、死んだら後悔する・・・ と思っているなら ブログを始めてください。 ブログで稼いだお金で 我慢していたことを 全部やってください。 会社員の給料で できることなんて 限られていますからね。 結婚して子供がいたら ぼろぼろになるまで 働いてお小遣い3万円・・・。 これが現実です。 ただ、ぼろぼろになるまで 10年も20年も 働いている人なら 数年間、ブログを 頑張るなんて余裕なはずです。 「もっとやりたいことが あったのに・・・」 と死ぬ前に後悔する 人生だけは送って 欲しくないです。 お金があれば、99%は やりたいことができます。 素晴らしい先生に いろいろなことを 教えてもらうこともできます。 お金があれば・・・ですけどね。 父はわりと堅実なお金の 使い方をする人ですが 教育に関してはお金を 惜しみませんでした。 僕を私立の理系の大学も イギリス留学も何も 言わずに行かせてくれました。 実際、その経験が今の 僕のビジネスに役に立って いるところもあります。 教育や体験にお金を惜しんでは いけないと父から 教わったきがします。 無料情報でブログをなんとか しようとしている人は ほんと恥ずかしい人だと 思ってしまいます。 だってブログを教わる お金がないということなのだから。 お金があればフツーに 有料でブログを習いますからね。 ブログを習う、習わないとは どちらでも良いのですが、 後悔しない人生を 送りたいものです。 死ぬときにやり残したことが あるのは僕は死ぬより嫌ですから 全部やってきました。 これからもやりたいことは 全部やっていきます。 そのためにブログで 稼ぎ続けます。 また、次のメルマガで お会いできるのを 楽しみにしております。
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